トロントの天妙寺は、中国系カナダ人の弟子が住職を務めています。信者や弟子たちも中国系の方が多く集います。滞在中は阿字観や作法講習などを精力的に行いました。その中で、特に驚いたのは弟子たちのひた向きさです。
私たち日本人は、作法次第に書かれている経や偈文と呼ばれる言葉は漢文です。要するに中国語で記されています。当然、中国語が話せる者にとっては、多少古臭くても日常会話の延長上の言葉です。
過去に、公に宗教活動が憚られていた時期もある中国の人たちにとって、日本仏教の系譜である修験道は、新しくてどこか懐かしさを感じさせる存在なのかもしれません。感覚的な事は分かりませんが、おそらく私たちにとって祝詞のような感じなのではないでしょうか。私達の場合は、所作を学びながら、漢文で書かれている事を理解し、その背景の教義を原典に当たり学んでいく事になるります。一方、彼らは、解説などしなくても作法が何を書かれているのかを当然の事として理解出来ます。サンスクリットの真言の読み方と所作を解説するだけで、伝授は終了します。
一たび学び始めると、その習得は早く、作法の内容を理解するどころか完全に暗記する事も容易くやってのけます。完全に内容を理解して行う所作はスムーズで、印や法具を扱う動きは、手踊りやカンフーを見るような見事なものです。
中国系の行者に限らず、生粋の西洋人の中にも、流ちょうなお経を唱える者もいます。その声だけを聞くと、日本の僧侶と何ら変わりないレベルです。今後、仏教であれ修験道であれ、世界に広まり、そして中国圏に浸透する事になれば、日本国内の修行者は一層の精進をしなければならないと感じました。修験道の舞台は地球、即ち全世界なのですから。