修法に当っては、護身法、礼拝に続いて、禮盤に就いた後の供物や洒水加持等の一連の作法は如法に従って行います。
冒頭にある「珠香取」にある七五調の下りは、実は当初は表白ではないかと思っていたのですが稲荷和讃と呼ばれる和讃である事が分かりました。
この稲荷和讃は『稲荷百話』(伏見稲荷大社々務所・昭和33年刊)に「稲荷大明神和讃」として紹介されています。
原本によって、若干の言葉の差異がある様です。
初めて読下した際は、和讃という認識ではなかったので、言葉の並びを考えなかった為に、どこかに無理がある感じがしました。
この度、新たに以下の様により七五調の調子に整えました。
和讃の節は分かりませんが、次第書よりは以下の方が唱え易いと思います。
稲荷和讃
帰命頂礼観世音、垂迹稲荷大明神。千手千眼如意輪尊、大慈大悲十一面。和光利物化現して、三所権現新也。
四之大神多聞天、田中之明神不動尊、妙音化現弁財天、御黒弥勒同一体、地蔵応化十禅師、文殊の垂迹命婦也。
普賢菩薩同流にて寂光此土を立ち出でて、同居之境に垂迹し、衆生に福徳得させつつ、二世の満ち玉え。
我等結縁深くして信心の誠浅からず。財宝願いに随いて、貧しき輩無となり、明神利生の本懐は、今更に満足し玉えり。
我等願いを充満し、衆生も願望他力にて福智満足す。
其の身の寿命意に任すべし。
除災与楽之衆生には、皆人同じく様繞す。百里栄花時を得て、後生善所之義成せば、此土の利益之終わりには、本願正しく顕れて、来迎引攝浅からず。
現世後世之得益は明神利生の故ぞかし。
極楽浄土に生まれては、六神通を具足して、娑婆に帰り来たりては、一切の如来、大慈大悲、八寒八熱、那落伽、皆一漏に集りて、観世音大悲は人に代わりて苦を受く。
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆供成仏道
次の被甲護身印、無所不至印、智拳印は共に真言を一回唱える毎に五処加持をし、歌曰は印をそのまま組んで秘歌を詠みます。
請車輅は真言の度に両大指を三度来去させます。
次第書の解説の中でも述べている華座の後の独鈷作法を説明いたします。
先ず独鈷を右掌に取って、右転三回させて薫香します。
次に、独鈷の先で心上に輪を描く様に右転三回させ、その中に日輪を観じます。
そして独鈷で、そのまま五処加持を行い元に戻します。
47ページの内縛から空(大)指、風(頭)指と順に立てて開いていく印ですが、特に水(無名)指を立て開くのが大変です。
作法のコツとしては、無名指だけ外縛して交差させる様に内縛させザックリと指を解く様にするのです。
無名指だけを立てて行うと、何とか印図通りにならないまでも格好になります。
この空から地までの両指を立てる印にダキニが集う様を観想していきます。
そうして金剛合掌で祈願した後に、本尊を招き、蓮台の上にお乗り頂きます。
この行法中、内五鈷印は重要な意味を持ち、大親指以下中指までがダキニの顔、内縛した両無名指が胴、両小指が尾を表します。
即ち内五鈷印でしっかりとダキニのお姿のイメージを描くのです。
その後で内縛し火(中指)を立て合わせて、ダキニと文殊の真言を合わせ唱える事で開眼させます。
法界定印で向かい合い、寶請印を以って寶珠を捧げ、金剛合掌で拝する事になります。散念珠の後は後供養となっていますが、このダキニ天秘法には前供養はありません。
お分かりだとは存じますが、この後供養とは片供の事です。この片供については第5講で既に詳しく説明をしていますので、ご参照下さい。
53ページ冒頭のご供養後の本尊奉送の印は、真言の度に小指を開け放ちます。
三鈷印の後に、下禮の準備として合掌祈念や洒水、火舎の蓋を閉め、護身法を行なう事は言うまでもありません。
下禮盤しての読経は、般若心経や稲荷心経、観音教などを随意に唱えます。唱えた後に礼拝します。
このダキニ天秘法は『厳秘必験祈祷法』中で、最も験力が強く顕れる行法です。
次第書中の解説にも書きましたが、行者によってはかなりの影響を受ける場合があります。
ダキニ天秘法を修した後、同じ祭壇で通常の祈祷を行なうと強い障碍を受ける場合があります。
この様な場合は、神供を修するなどの対応が必要です。
またダキニ天秘法を修する場合は、特に供物を通常より少しは豪華にするなど心を砕く事をお勧めします。
私は毎月22日のご縁日は勿論、午の日の度に供物を欠かさぬなど、気を使ってお祭りしております。
また60日毎の甲子前日の深夜には、必ずダキニ天を眷属にしている大黒天の護摩を修法しております。
こうした事もあってか、これまでに障碍を被った事はありません。
ダキニ天は何となく怖いイメージがあると思いますが、必要以上に恐れる事なく、丁重にお祭りしましょう。
これまでに愛宕勝軍神祇秘法や勝軍地蔵法、飯縄智羅天法、それにダキニ天秘法の詳解を致しました。
しかし、これらの詳解は、加行を終えた密教僧や自行が出来る行者を対象としております。
また、この様に文章で間接的にお伝えするのは限界があります。
初行の方は、余程の資質がある方以外は、師僧等から何らかの指導を受けなければ行法として成り立ち難い部分があります。
これらの修法は、純密の枠に収まらない修験古流法流の流れを汲んでおります。
これまで解説して参りました事は、表層的な一側面でしかなく、更なる口伝がある事を明記しておかなければなりません。
これらの奥伝は、明らかにする事を躊躇している訳ではありません。
しかしながら、観想や気の運びとも云える間合いの取り方は、相対して伝える以外に方法はないのです。