神仏の住まう甑岳
山形県の内陸地方、村山市の中心部から、直線にしてわずか5キロメートルの処にそびえる千メートル級の独立峰が甑岳です。身近な存在でありながら下界を睥睨(へいげい)するような姿は高貴であり、神々が住む「貴(=高)い山」として、この地の人々から畏怖されてきました。古来より、農耕の神である「水分(みくまり)の神」として、山形盆地に住む人々からの篤い崇拝を集めていたのです。
やがてこの山に高僧が佛を祀り仏法が伝わります。大化四年(六四八)に道昭が、霊像を安置し、観音寺の前身となる華蔵院を開いたのです。以来、甑岳は霊験あらたかな山として人々が信仰するようになりました。御開山・道昭はその後、第一回目の遣唐使となり、唐に渡り玄奘三蔵に師事しました。大化四年は、その道昭が二十歳の頃です。まだ若き日であったとはいえ、何の目的もなくわざわざ辺境の甑岳に来る筈はありません。
魔を封じる本朝の鬼門
当家には代々、甑岳を「本朝の鬼門」と伝えて来ました。鬼門とは、北東の方位の事です。鬼の出入りする万事に忌むべき方角とされています。こうした魔を封じるには、神社仏閣が祀られてきました。道昭は大化改新後、まだ間もない都の危うさを霊力で守れとの勅命を受け、誰も寄せ付けないこの遠隔の地に、奈良飛鳥の都のちょうど東北四五度の鬼門上に坐す甑岳を探し出したのです。そして鬼門封じとして霊像を祀り、密かに都の護りとしての霊力を孕ませたのです。
甑嶽山観音寺は鬼門封じの寺として、強力な加持祈祷を実践して来ました。仏教、神道、陰陽道は勿論、自然の力を利する数々の不思議な作法を伝えています。神と仏を併せ祀り、崇拝する事から、そうした信仰を神仏習合と呼んでいます。そして深山幽谷に宿る神々も加わり、我が国に修験道が生まれました。甑岳もまた修験道の山として、山伏が修行の場としていました。
今こそ求められる甑岳の霊性
時代の変遷を経て、観音寺は、応仁元年(一四六七)に麓に下り、寛延三年(一七五五)には里に移り、最上三十三観音霊場の番外三六番打止札所となり賑わいました。明治二年(一八六九)廃仏毀釈を迎え、寺を閉じました。仏教弾圧の中で、神と仏を併せ祀った修験道は、その次第書などのほとんどが焼き捨てられました。こうした中にあっても、当家は甑岳を護持し、修験道の神仏習合の儀礼を実践して参りました。甑岳は我が国の礎を築いた霊山です。この山の霊性が衰えない限りは、我が国、そして我が国を取り囲むアジア諸国、そして世界の平和が保たれるのです。際どい世界秩序の今、甑岳の霊性をより強固にする必要があります。その為に、当寺は秘匿してきたこれら諸作法を一般に公開し、未来へ継承すべく努めております。甑岳を神仏習合の修験道の実践道場として活動しています。平成一七年には宗教法人格を取得し、古流修験本宗を立宗致しました。今や日本は勿論、北米やヨーロッパ、香港などからも入門者が訪れるなど、古流修験本宗は世界にも広がりつつあります。